小学校の参観日で国語の授業を見るとき、いつも思うのは
「学校の国語授業では読解力は身につかないのでは?」
と、いうことです。
もちろん先生方は一生懸命指導されています。
されていますが…、どうも言葉や文章へのこだわりが足りないような気がしています。
参観日の授業から見えた読解指導の難しさと読解力を身につけるために必要なことは何か考えてみました。
小学校の国語指導で読解力は身につかない?
人間の能力の中で「読解力」って本当に大事だと思うんです。
入試や普段の勉強だけではなく、相手の発言を読解することって日常の作業ですよね?
テレビでも会話でも発信された情報を文字通り読み解く力です。
でも、小学校の参観日で国語の授業を見るたびに思うんです。
こんな授業で読解力が身につくのだろうか?って。
今回の参観日で行われた授業を例に考えてみたいと思います。
学習指導要領の改訂で国語では次の3つが改善のポイントとして挙げられています。
- 何ができるようになるか(資質・能力)
- どのように学ぶか(指導計画および学習・指導方法)
- 何が身についたか(学習評価)
1の目標として掲げられたが「知識及び技能」と「思考力,判断力,表現力等」「学びに向かう力,人間性等」の3つ。
言っていることはよくわかります。
読んだり、書いたり、聞いたりという活動がつながりあって、国語の力がついていくものだと思います。
もちろん評価も「何が身についたか」を計るものでなけらばなりません。
しかし、現場の国語指導はまだまだ古い指導が多いような気がしています。
参観日で見られるのはほとんどが「物語文」の指導というのもその一つです。
ごくたまに「話すこと・聞くこと」の指導と思われる授業もありますが、そのほとんどは子供の発表場面なので教師がどのような指導をしていたかはなかなか見えてきません。
それでは、参観日になぜ物語文の指導が多く取り上げられるのかと考えたときに、やっぱり見ている保護者にも分かりやすい、見栄えがするというのが挙げられると思います。
漢字指導なんか地味ですよね、きっと。
で、小学校で物語文の指導をするときに必ず先生は
「○○が△△した時の□□の気持ちを考えよう」
と子供たちに質問(教育業界では『発問』というらしい)します。
例えば「ごんぎつね」だったら、「兵十に撃たれた時のごんの気持ちを考えよう」とか「大造じいさんとガン」だったら「残雪に逃げられた時の大造じいさんの気持ちを考えよう」とか。
私、こういう発問を聞くたびに頭に「?」がつくのです。
いや、ごんやじいさんの気持ちを考えるのはかまいません。登場人物の心情理解はとても大切です。
ただ、その指導で「読む技術」が子供たちに身についているのか疑問に思うのです。
(小学生の詩の書き方教えます!~実際の方法とコツ~)の記事でも書きましたが、子供が本当に身に付けなければいけないのは「国語の技術」です。
物語文の授業で大切なのは、「ごんの気持ちを知ること」でもなく「じいさんの気持ちをまとめること」でもなく、「ごんやじいさんの気持ちを考える授業を通して読解力を身に付けさせる」ことではないでしょうか?
「ごんの気持ちを考えよう」という発問をして、ごんのイラストが印刷されたワークシートにごんの気持ちをまとめる授業では、物語文の読解力が本当に身についているとは思えないのです。
なぜなら、ごんぎつね以外の物語文を子供が自力で読めるようになっているか疑問だからです。
読解力を身につける言葉に根拠を求めた読解指導
小学校の国語指導にはもう一つの弱点があるように思います。それは登場人物の心情理解を「イメージで指導」をしている点です。
うちの長女の参観日でこんなことがありました。
ごんぎつねのラストシーンを取り上げていたのですが、ある女の子の発表で教室が「おー」という歓声で包まれました。
「私はごんは幸せだったと思います。それは、うなぎの償いを兵十に分かってもらえたからです。」
これには担任の先生もびっくりしたようで、かなり褒めていました。私は違和感を感じていましたが、長女が家に帰ってきて一言
「兵十はくりやマツタケを持ってきていたのはごんだと気づいたけど、それがウナギの償いかどうかは知らないはずだよ。」
「って言うか、兵十のおっかあが死んだのだって、ウナギが食べられなかったから、なんてどこにも書いてないし…。それはごんが勝手に想像しているだけだよ…」
そうなんです、私が違和感を感じていたのもまさにここ!
娘の言う通り本文中には全く書かれていないことも「正解」として取り上げてしまう読解指導で、本当の読解力が身につくはずもありません。
兵十はごんがくりやマツタケを持ってきてくれたことは知ることはできたが、それがなぜかは分かっていない。
一方、ごんは自分の償いが通じたと思っている。
「ごんぎつね」の文学としての本当の素晴らしさは、
「死してもなお永遠に伝わることのない想い」
ではないでしょうか?
それを読解できないうちは、ごんぎつねを読む醍醐味は分からないでしょう。
それではなぜこのような間違いが国語の授業で起きてしまうのでしょうか?
それは「言葉に対するこだわり」が足りないからだと私は思います。
子供の考えを聞いたら、教師はその根拠を文章中の言葉で説明させるべきです。
悲しいと思ったら、なぜ悲しいという感情を持ったのか「文中の言葉で説明する」。
うれしいと思ったら、なぜうれしかったのか「文中の言葉で説明する」。
ここが大事だと思っています。
でも、ほとんどの小学校の物語文授業でそういう指導は行われていないように感じます。
物語文の読解指導は「なんとなくそんなイメージ」で行われ過ぎているのではないでしょうか?
私が小学校の時の国語も似たような授業でしたから、何十年たっても国語の読解指導に変わりはないということになります。
世界との学力に差が出るのは当然です。
国語なんですから「言葉」にこだわった指導が大事だと思います。
読解力につながる読書習慣を身につけるには?
「それを言っちゃあおしめーよ!」的な感じになってしまいますが、読解力(国語力)を決めるのは読書量だと思っています。
娘は暇があれば読書をしていました。
あの分厚いハリーポッターシリーズも小学校3年生から何回も読み返していましたし、中学生、高校生になってからはお互いおすすめの本を教えあい、私と書評したりしています。
娘も息子も国語で苦労はほとんどしていません。
子供たちが本好きになった原点は「絵本の読み聞かせ」です。
これは何年生になっても有効です。
もちろん高学年や中学生になってからの読み聞かせはきついものがありますので、そのような場合には絵本を読むことから始めるのも一つの手です。
絵本なら取り組みやすいです。全く読書をしないよりはずっとましです。
大人向けの絵本がたくさん出版されている時代ですから、お好みの絵本がきっと見つかるはずです。
とは言っても、先生方も一生懸命指導していると思います。
読解力(国語力)を身に付けさせるには読書習慣を身につけさせるのが一番の方法だともきっと痛感していると思います。
ますは教室に簡単に読める絵本を置くところからはじめてもいいような気がします。
運動習慣がない子に突然激しい運動を課しても続きません。
読書もそれと同じだと思います。
国語の授業が、他の本を読んだ時の読解力につながっていけばいいなあと考えています。
コメント